ひとりの大学教員として学生のみなさんへのメッセージ:
ウクライナで起こっている事態にどう向きあうか? 


(通常、こうした声明は組織が出すものですが、個人で出してはいけない理由もないので、勝手に出します)
 


2月24日以降、ウクライナで起こっていることを目の当たりにして、ショックを受けている学生のみなさんも多いのではないでしょうか。連日飛び込んでくるニュースからは、現実に起こっていることとは信じたくないような映像ばかりが流れてきます。様々な有識者による解説が加えられ、様々な機関からの声明も打ち出されています。
 
みなさん自身は、この事態にどのように向き合っていますか?
 
刻一刻と変化するウクライナ情勢の情報は提供されるものの、この事態に対して私たちがどう向き合ったらよいかについては誰も教えてはくれていないかもしれないですね。こういうときの対処法が書かれたマニュアルも存在しません。日頃はいろいろなことを教えてくれている大学も、今の目の前で進行している事象を捉えるための知恵を授けてくれるわけでもなさそうです(申し訳ないことに、COVID-19パンデミックが始まった当初、放置されていたのも皆さんの世代ですね)。つまり、こうした非常事態に際して、どう向き合うかの判断は、みなさんひとり一人に委ねられているのです。しかし、これだけの大異変が起こっているなかで、不自然にも身近な大人達が「沈黙」しているとしたら、学生のみなさんからしたらとても奇異に感じるだろうと思います。


実は、前例のない事態を前にして、私たち教鞭をとる側の人間も、どう向き合ったらよいのかがわからず困惑しているというのが実情のように感じます。答えがわかっていてだまっているわけでは決してない、みなさんと同じ土俵にいるのだ、ということをお伝えしておきたいと思います。私自身について正直に言えば、2月24日の侵攻の第一報を聞いて頭が真っ白になり、脳がシャットダウンする感覚がありました。思考停止状態に陥り、リアクションの取り方すらわからなかった。次々と入ってくる情報をうまく処理できず、そもそも何が起こっているのかを認識できない、現実のこととして受け止めきれない、飲み込めない、どう捉え、解釈し、考えたらよいかがわからず、オーバーフローしてしまったのです。


これは、いま繰り広げられている事態が、これまでの私たちの経験の範囲も想像の範囲も大きく越えるものだったからだと思います。私たちは、21世紀の現代に、まさかこんな酷いことが起こるわけがないと漠然と信じていた。なぜなら、人類の長年の叡智の結晶として、やって良いことと悪いこととの区別は、みんなが守るべき約束ごととして定着し、私たちの一般常識や社会通念として浸透し、「人の道(人道)」における「あたりまえ」の「原則」となり、人間社会の営みの「前提」となってきたのです。しかし今回、このあたりまえのことがあたりまえではなくなってしまった。この攻撃によって破壊されようとしているものは、私たちの社会の原則そのものであること、前提そのものが揺るがされているという認識はおさえておきたいと思います。
 
その上で私たちは、この事態にどのように向き合えばよいのでしょうか?
 
この混沌とした状況のなかにあって、みなさんはあらゆる種類の判断に直面しているはずです。次から次へと入ってくる情報のうちどれを信じればよいのか、様々な呼び掛けのなかからどれに呼応するか、思い浮かぶアクションのうちどれを実行するべきか等々、判断に迷う場面も多いでしょう。ものごとの判断に迷ったときには、判断の基準となる「拠り所」が必要です。


その拠り所として有用なのはやはり、これまで私たちがあたりまえのものと考えてきた原則なのではないかと考えます。昨日までのあたりまえが根底からひっくり返されようとしてしている今だからこそ、元来の原則に立ち返り、ものごとの判断基準として「参照し続ける」ことに意味があるのではないでしょうか。「異常な状態」が新しい日常となることで、私たちの基準が麻痺してゆくこと警戒するべきことと考えます。目下幸いにも、良心ある人々の絆によって、暴力に立ち向かうべく、世界は一致団結しつつあります。しかし、今後、「ひょっとすると暴力で解決するというオプションもありかもしれない、武力こそが有益な手段なのだ」という形で、これまで築き上げられてきた文明社会の価値観そのものが揺らいでゆく可能性もゼロとはいえません。


そうなってしまうことを避けるためにも、何が私たちの社会で共有された原則だったのか、「昨日までの世界のあたりまえ」をみんなで再確認しておく意味があると思っています。今回私たちは、明白な暴挙を前にして問題が「自明」に見えるがゆえに、また、圧倒的暴力を前にして「無力」と感じているがゆえに、敢えて議論を避けている側面もあると思います。しかし、前提が揺るがされている今、私たちが大事にしてきた原則が多くの人たちの間で繰り返し再確認されることではじめて、私たちは自分が間違った方向にいっていないかどうかを確かめることができるのだと思います。例えば、平和、が大事なのはわざわざ確認するまでもなくあたりまえのことですが、その当たり前のことを表明し続けなければならない。そうやって支え続けなくてはならないほど脆いものであることを、思い知らされたばかりです。


その上で、学生のみなさんには、どうか「考えることを止めるな!」と伝えたい。私たちがもっている唯一の”武器”が考えることなのですから。みなさんがそれぞれ教室で学んでいる「学問」は、いま起こっていることを何らかの視角から「捉えるための枠組み」を用意してくれているはずです。学問に照らせば、いま起こっていることが「どのような観点から、どのような意味において、何が問題なのか?」をより明確化できるかもしれません。そして、みなさんが学んできたことと、目の前で起こっていることとの距離を測り、理論では説明つかないもの、学問が捉え損なったものの正体を問い続けていただきたく思います。


そして、考えてみてもわからないことがでてきたら、身近にいる大学の教員などにどんどん質問をし、議論をすると良いでしょう。私たち教員の多くは議論したくないわけではないと思います。より、みなさんに納得いく形で伝えることができるように準備をしている先生が多いはずです。(良きにつけ悪しきにつけ研究者の癖で、研究成果がある程度まとまってから慎重に語りはじめるつもりだと思います。”時差”が生じるのはお許しください。)。ですので、「途中段階の考えでも良いから聞かせてくれ!」と言えば、必ずなんらかのリアクションが返ってくるはずです。


幸いにも私たちはまだ、「議論する自由」が残されています。互いに繋がれるネットワークや電力などのインフラも温存されしています。それはとてもとても大きな強みです。ウクライナ国内ではその機会が失われつつあり、ロシア国内においてもその自由が確保されていません。
もちろん、頭のなかの思考や議論によってだけで、今回のウクライナの危機を解決する答えを導き出せるとは到底思っていません。しかし、直接的なソリューションでなくても、それぞれの学問の特性に応じて(とりわけ社会科学領域は)、なんらかのヒントくらいはでてくるはずだと思います。研究の成果は長期間かかるとはいえ、もしも、今まさに困っている私たちの前に、何の指針も出せないものが学問というものならば、そんなものは願い下げだ!と思います。いま役立たなくて、いつ役立つというのでしょうか?


かくいう私自身、どうすれば良いのか、どうやったら解決できるのか、という答えはもっておりません。それゆえ、「問題解決に直接的に役立つ知恵」を出すことできないけれども、まずは「問題を前にしたときに向き合うための知恵」について検討しようとしたのがこの小文です。直接的なソリューションを見つける以外の向き合い方、貢献の仕方があるということの例証の一つになれば幸いです。


私が学生のみなさんに、自分でもまとまりきってない暫定的な考えをオープンにするのは、教育現場が私の「持ち場」であり、それがウクライナの人たちのためのに今の私ができる(間接的だが)最も有効な手段と考えたからです。また、「わかっていること」を共有するだけが教員の役目というわけではなく、「わかっていないこと」を共有することにも意味があると思っています。メッセージの受け取り手としての学生のみなさんから多くの反論や加筆修正意見、質問などをいただくことで、アイディアを更に鍛えてゆくことができると確信しています。私自身はこれまで、社会科学の研究者としての自覚に基づき、研究対象としての社会の「あるべき姿」について言及することは控える方針をとってきました。しかし、今起こっていることは、研究者である以前に人として到底看過できるものではなく、筆をとることにしました。社会が、世界が、消滅した後に、社会科学が、学問だけが残っても無意味ですので。今後も、自らの考えを連続的に発信をしてゆく予定です。FaceBook上ででも意見交換をしましょう。

https://www.facebook.com/koverty

 
一大学教員として
小林誉明

kobayashi-takaaki-gv@ynu.ac.jp